2011年3月11日の私(移動記事)
- 伊吹雪 八木
- 3月11日
- 読了時間: 7分
今年もこの日がやってきました。
「なんか文章書きてぇ!」と趣味の一環として稼働し、現在は化石となっているnote(※なお八木伊吹雪になる前)があるのですが、いい機会なので東日本大震災から10年経った振り返り記事を加筆修正してここにも置いておくことにしました。
当時脳内で書くことを決めていた時に「おや、これは立派な被災体験だな?」と気づいたことをよく覚えています。こんな長文が書ける程度には自分にとって衝撃的な体験だったのだなぁと改めて感じました。
【地震直後の私】
2011年3月11日、当時は春休み中の学生だったため、母と病院で花粉症の薬をもらった帰りに電器屋さんへ寄っていました。母がお手洗いに行っている間、適当に店内を見ていた際に地震に遭いました。当時住んでいた神奈川県でも震度5強の揺れでした。
店内が大きく揺れたときに「あ、死ぬ」という予感が頭によぎりました。幸い数秒後「あ、死なん」に変わりました。近くにいた取り乱すおばさまを見たらなぜか急に冷静になり、
(母と離れている。このまま外に避難になったらどうやって合流しよう)
(一人で家に帰らないといけないかもしれない。どうやったら帰れるだろう)
(とりあえずTwitterには無事って書いとこ)
と凄いスピードで思考が頭を駆け巡ったのをよく覚えています。
その後店員さんが
「この建物は耐震構造となっております!外には出ず、店内にいてください!」
と大声で呼びかけながら巡回していきました。この一言で凄く安堵したことを覚えています。そしてトイレという落下物の殆どない安全な場所で被災し、「あぁトイレ行っててよかった」と言っていた母に若干の怒りを覚える…w
まず死ぬ!って思ったし、これからどうしようって凄く焦ってたのに人の気も知らんで呑気な…って気持ちだったのです。態度にも言葉にも出しませんでしたが。別にどちらも悪くはないですから…。ただ理性と感情は別~!
電車は止まり、電線が切れたらしくバスも動かなくなってしまった(※信号機が点灯しなくなった)ので、駅1つ分ほど歩いて帰りました。遠出をしていなかったのが幸いでした。
さらに幸運なことに壊れたものは殆どありませんでしたが、家に帰るとキッチンの引き出しが全部飛び出していたのをよく覚えています。この飛び出しっぱなしの引き出しも非日常の象徴でした。ちなみにこの日父は会社に泊まりました。無理して帰ってこなくてよかった。
【震災直後の身の回り】
その後は非日常が続きました。物流がストップして大好きな牛乳が飲めなくなり、牛乳が置いてあった場所に豆乳が置いてあったり、熊本にある母の実家から送られたダンボールに入っていた支援物資に最新式携帯ラジオから粒のでかいニッキ飴まであって、(昭和と平成が混在している…!)なんて思ったり…w
何かと不自由ではありましたが、苦しくはありませんでした。そういやデマのチェーンメールとか色々回ってきたなぁ。全部止めたけど。
ですがあの時は無気力になってしまい、全く勉強が手につきませんでした。
学生なんだから勉強せえって思うのですが、未曽有の大災害を前に心には大きなストレスがかかっていたのだと思います。不安で押しつぶされそうになりながら生きていくのが精一杯でした。
あの地震に遭った時「あ、死ぬ」と思いました。これはヒトという生き物としての本能・直感でした。
頭を殴られたかのような衝撃でした。「自分はちっぽけな生き物である」という“理解”が“実感”に変わった日でした。
【でもその後の方がつらかった】
震災からしばらくした後、私は精神的にふさぎ込んでしまいました。春休み期間中の数日間だったと思いますが、正直覚えていないです。
震災直後、関東地方は首都圏全域の停電を回避するために部分的に供給をカットする必要があるとの見方が浮上し、地域ごとに輪番で停電させる「計画停電」が行われていました。
いつ行われるか分からなかったので(実は私の住んでいた地域には総合病院があったため、計画停電は行われませんでしたが)、私は自分自身にパソコンやゲームといった娯楽を極力禁止していました。
その当時私はニコニコ生放送をかじっていました。仲良くさせていただいた生主さんには東北の方もいらっしゃったので、とても心配していましたが、無事を確認したときにとても安心しました。
ですが安心してしまったことで私の中にある気持ちが芽生えてしまったのです。
「震災で犠牲になった人はたくさんいる。今も不安な毎日を送っているのに、悲しみに暮れている人もたくさんいる。なのに私は友人が助かったと喜び、無事だった関東でのうのうと生きている。あまりにも無自覚で無責任で無遠慮がすぎる。」
ツッコミどころ満載の思考回路だなと思います。思いますが、一度置いておきましょう。
この現象は『戦争や災害、事故、事件、虐待などに遭いながら、奇跡的に生還を遂げた人が、周りの人々が亡くなったのに自分が助かったことに対して、しばしば感じる罪悪感』“サバイバーズ・ギルト”と呼ばれるものでしょう。
この気持ちは日に日に私を蝕んでいきました。
サバイバーズ・ギルトは本来の定義だと、被災地で被災した人に襲い掛かるものだと思うのですが、マスメディアやインターネットで日本各地や世界各地が繋がった現代では、被災地から遠く離れた人にも大きな影響を与えたと考えています。
連日の津波の映像、関東でも震度5強の大きな揺れ、度重なる余震、次は首都直下地震ではないか?と襲い来る不安。あの時の日本列島は本当に異常事態でした。
ある日ぼっきり折れてしまい、Twitterに「どうして私は生きているんだ。被災した人の代わりに私が死んでいればよかったのに」と呟きました。その時「そんなことを言わないで」と当時のフォロワーさんにリプライを送っていただきました。見苦しいつぶやきに温かい言葉を返していただき、本当にありがとうございました。
「今生きているのがつらい」までは話しませんでしたが、父にも一部この気持ちを吐露しました。母とは上手くいっていない私ですが、父は私の話をきちんと聞いてくれる私の強い味方です。
父は「しょうがないよ。それはしょうがない」とだけ答えました。
それだけかい!ってツッコミを入れる方も入れるかもしれないですが、その時の父の声のトーンは沈痛なものでした。心からの言葉でしょう。
“犠牲者を悼むこと”“友人が無事と分かって安堵すること”“安堵に罪悪感を覚えること”どれもしょうがないのです。すべて心に根付いた事実なのだから。
そこまで言いたかったのかは分かりませんが、認めてもらえただけで私の心は軽くなりました。
今は災害が起こった時に関するニュースを極力見ないようにしています。
ニュースは大事ですが、画面の向こうの惨状に思いを馳せすぎて自分の心が潰れてしまっては元も子もありません。つらいと感じたらニュースを見るのをやめてしまって大丈夫です。生きるための情報収集だけすれば良いのです。ちゃんと生きていけます。自分の心を守りましょう。
【3月11日とそれからの命】
震災から10年経ちました。東日本大震災を知らない命もたくさんあります。私の実家にいる2羽のインコもそう。サザナミインコのライムは2012年1月生まれ。マメルリハのプチは2020年生まれだったと記憶しています。
震災の記憶の風化が問題視されていますが、当たり前です。命は次々生まれ、「今」は次々更新するのだから。
大事なことは「知らないことを罪としない」ことだと思います。「何で知らないんだ」と糾弾してはなりません。大地震を知らないからといって今生きている子供たちやうちのインコの命に罪などありませんし、愚かでもありません。
知らないなら今からでも知ることが出来ます。伝え、経験を活かしていくことが震災経験者の役目だと思っています。
それから3月11日生まれの人へ。自分が生まれた日は人類の歴史のその時にしかありません。たくさんの人が悲しみに暮れた痛ましい日ではありますが、あなたが生まれた大切な日であることは変わりません。お誕生日おめでとうございます。
サバイバーズ・ギルドに襲われて自分自身を攻撃してたくせに偉そうに何を言ってるんだって感じですが、これは「あの時もっと自分を大事にしてやればよかった」という反省から生まれた記事です。
でも本当にあの時は大変だった!!今の精神だけが当時に戻ったとしても、サバイバーズ・ギルトに襲われない自信は正直ない。マジでない!おれはよわい…。
弱くてちっぽけだと分かってしまったので、とりあえず今は開き直ることにしました。
未曽有の大災害、国家の異常事態、おかしくなって当然です。皆が皆何かしらの形で傷ついたはずです。
だからこそ振り返って、向き合って、備えていく。それしかないと思います。
でもまた災害が起きたら同じ気持ちになっちゃうかもしれないな。大自然はあまりにも強大で残酷だから。
そうしたらまた考えます。命ある限り。
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